Column
「阿久悠をめぐる対話を終えて」

今回のスペシャルコラムは、
ETV特集「いきものがかり水野良樹の阿久悠をめぐる対話」(NHK Eテレ9月23日放送)の出演を終え、
水野がまとめたものです。

「時代を喰って歌を書く」

阿久悠の作品群はなぜ「エバーグリーン」と呼ばれないのか。

あれだけ多くの人々に愛され、なおかつ時間の経過にも耐え、今も歌い継がれていることに疑いはないのに、同時代、あるいは彼以後に現れた作詞家、シンガーソングライターの作品たちに比べると、阿久悠の作品群はこの「エバーグリーン」という単語と結びつけられる機会が圧倒的に少ないように思います。

 

ある時代の匂いを強烈に放っている、歌たち。
「時代を喰って」とはまさに言い得て妙な表現ですが、彼は常に目の前の社会というバケモノを自分のなかに取り込み、それが求めるもの(=時代の飢餓感)が何かを探り、歌のもとに具現化しようとしました。

 

一方で、彼がつくる歌には、阿久悠そのものが、時にはっきりとわかるようなかたちで、内在していました。

 

時代や社会といったとらえどころのない、しかし確実に存在して、なおかつ巨大なものを、存分に喰らって歌をしたためながらも、彼は「巫女(みこ)」ではなかったのだと思います。
阿久悠は主体ある存在として、常に自分の考えを持ち、自己と社会とをつきあわせて、その対峙のなかで言葉を投げかけていきました。

 

だからこそ、彼がつむいだ言葉たちは、時代と手を握り合うときもあれば、思いすれ違い、時代とはぐれるときもありました。阿久悠の歌と社会との距離感は、そのまま阿久悠自身と社会との距離感だったのかもしれません。

 

時代を越えながらも「エバーグリーン」ではないものとして彼の歌がそこに在り続けることは、まさに阿久悠が残した強烈な主張のようにも、僕には感じられます。

 

2007年に亡くなってから、今年で没後10年。
あらためて阿久悠と、彼の作品群にスポットライトがあたるなかで、自分にもこの巨匠に向き合うチャンスが与えられました。放牧というタイミング。ひとりの書き手として自分に何ができるだろうと考える日々に訪れたこの旅は、願ってもないものでした。

「狂気の伝達」

阿久悠によれば、歌にとって大事なのは「狂気の伝達」なのだそうです。

手書きの原稿を作曲家に渡すのをこだわったのも、自らが詞を書き上げたときの「熱」をそのままに届けたいという理由からで、その原稿も作曲家に渡したまま返却してくれとは言わず、送ったきりとなることも多かったようです。彼にとって原稿とは、まさにクリエイターどうしの手紙だったのかもしれません。

 

デジタル全盛の現代において、おもに旧世代が持つ、手書きに対する「信仰」のようなものはすでに忌避されて久しいですが、実際の直筆原稿を目にした自分の感想から言うと、阿久悠の手書き原稿へのこだわりは、実はそのような精神論だけからくるようなものではなかったのではないかと感じました。

 

表紙のタイトルには丁寧なレタリングがほどこされ、楽曲のイメージに合わせて全体がデザインされていました。放送作家という彼の出自から考えても、原稿自体がさながら企画書のような体裁にも見えました。その多くは彼が学生時代から膨大に見てきた大衆映画を想起させるもので、詞に組み込まれたアイディアの背景を感じさせ、単純な文字情報を越えた、作曲家とのイメージのすり合わせに大きな効果をもたらすものであったように推察できます。つまりは、直筆であったことに、実務的な意味合いもあったのではないかということです。
また70年代当時、阿久悠とタッグを組んだのはいずれも彼と同様に人間離れした膨大な量の仕事をこなしていた人気作曲家たちで、手書きの原稿を渡すというある種のプレッシャーがけは、感情論うんぬんもありますが、作曲家たちに自分の作品へのウェイトをしっかりと保ってもらうための、より現実的な働きかけでもあったと思います。

 

ともすれば阿久悠の「熱」や「狂気」は、古い精神論の範疇だけで片付けられてしまいがちですが、作品づくりにたいして真剣であるがゆえにこそ、彼はよりしたたかで、戦略的で、そして異様なまでにリアリストだった一面もあったように僕には思えました。

 

とはいえそれらの一面は阿久悠という作り手の、いくつも折り重なった階層のうちのひとつでしかなく、やはり基本的には、ものづくりにおけるクリエイター間での熱のあるやりとりを、心から求めるひとであったことは、もちろん疑うところではないでしょう。

「ああ、あれは未来感だね」
対談1:深田太郎さん

阿久悠をめぐる対話のなかで、まず最初にお会いしたのは、ご子息の深田太郎さんでした。

お父様の面影を感じさせる深田太郎さんのお姿に、まるで阿久さんがそこにいるようで、最初は少し緊張しましたが、終始笑顔で貴重なお話を聞かせていただけました。

 

父は晩年、さみしがっていた。自分と同じ熱量でぶつかってくれるクリエイターがいない。向き合ってくれない。父がもうズレていたところもあったのかもしれないけれど、でもさびしかったんだと思うですよね。懐かしむように語る太郎さんの言葉は、お父様に対する敬意と愛情にあふれていました。

 

阿久悠のなかに深田公之さん(阿久さんのご本名)はどれくらいいたのでしょう、と尋ねると、テレビで見ていた父のイメージと家のなかでの父と、そんなに変わりはなかったですね、ずっと阿久悠だったんじゃないかな、ずっと戦っていたんじゃないかな、とのこと。

 

満足がいく作品だったときは、レコーディングから自宅に帰ってくるなり、まだ幼かった太郎さんを家のオーディオルームにつれだし「太郎、どうだ聞いてみるか。いいだろ!」とできたばかりの音源を聞かせ自慢げな顔をされたこともあったそうです。「満足そうに興奮していた曲は、実はヒット曲じゃないものも多かったんですよ。」とも太郎さんは笑っておっしゃっていました。

 

太郎さんはあるとき、何気なく聞いたんだそうです。
「あの鐘を鳴らすのはあなた」の「あなた」って何?
お父様である阿久さんは、同じように何気なく応えたそうです。
「ああ、あれは未来感だね」

 

体裁を整えねばならないような対外的なインタビューではなく、普段の親子の会話のなかで出てきた飾りのない言葉です。ゆえに、重い。あの歌における「あなた」の3文字は、時を越えて、その時代ごとの多くの人々を指し示し続けてきました。それを阿久さんは書いた時点で、すでに願っていたのでしょう。震える、エピソードでした。

 

明治大学の阿久悠記念館で、ご本人が27年間書き続けた日記を拝見しました。

 

これは阿久悠独特の特殊な日記で、個人的な私事の記載よりも、大半はその日に起こった事件、スポーツニュース、あるいは為替や株価などの経済トピック…などを列挙することで構成されているものです。1日に生まれる膨大な数のニュースのなかから、自分の興味がおもむくものをいくつか選び取り、編集し、実に淡々と綴っているこの日記は、まさに社会観察日誌のようなもので、少し詩的な表現に言い換えるならば「時代観察日誌」とも言えるものでした。
彼にとってこの日記を書くという行為は、時代や社会に鋭敏な作詞家であり続けるために必要不可欠な、いわば準備や鍛錬のようなものだったようです。これを27年間もの長きのあいだ、続けています。

 

あるスポーツ選手が、ある大会で優勝する。そのニュースを数年前には長文の感想も加えて大きく日記で取り上げていた自分が、同じ選手が同じ大会で優勝しても今ではわずかに1行書き記すのみ。それは社会をみつめる自分自身の価値判断が変化しているということだ。そういったかたちで、社会と、それをみつめる自分、両者それぞれの立ち位置を測り続けるようなものとしても日記は機能していたようです。

 

彼の創作活動は、彼自身の「私」の世界のなかだけで生まれるものではなく(これは阿久悠が私小説的な表現にとどまるシンガーソングライターを批判的に語る言い回しにも近いですが)、常に「私と、社会と」という世界のなかで生まれるものであったように思います。

 

番組では映っていませんが、日記の閲覧には深田太郎さんにも同席していただき、ふたたびお話を伺っていました。晩年の日記には闘病に触れる記述も多くあります。おそらく死期を悟ったうえで書き記したであろうと思われる決意の言葉もありました。僕らはどうしてもそこに目がいきがちですが、取材と撮影が終わり、帰る間際、太郎さんが僕を呼び止めました。

 

「水野さん、また読みたいところがあったらいつでも連絡ください。父は闘病だけじゃないんで。作詞家として戦いつづけたひとですから」

 

その言葉が強く残りました。阿久さんは、あくまで作詞家として生き、そして彼が貫いたその姿勢を息子である深田太郎さんも強い敬意を持ちながら守ろうとしている。冷静にみてみれば亡くなった2007年の日記は、もちろん闘病への言葉もありながら、それ以外は最後まで以前と変わらず、世の中の動きに丹念に目を向け、現役の作り手として社会と対峙しようとする、戦う阿久悠そのものの、凛々しくも静かな記述でした。

 

最後となった日の記述も、感傷的な言葉はなく、いつも通りの言葉が並べられています。
つまり、阿久悠は最後まで詞を書くための鍛錬(=日記)を続けていたということです。
彼は死ぬまで、阿久悠を降りませんでした。

 

僕らが見落としていたのは、目立つ記述だけには表れない、さらに根底にある阿久悠の覚悟だったのかもしれません。それを太郎さんは、教えてくださいました。

熱をぶつけあうということ
対談2:飯田久彦さん

「スター誕生!」で、スカウトマンたちの注目が他の有力候補者に向くなか、のちにピンク・レディーとなるお二人を選び、阿久さんや都倉俊一さんとあのビックスターを支えた音楽ディレクターの飯田久彦さん。

飯田さんはかつてご自身もシンガーとして「ルイジアナ・ママ」といったヒット曲を飛ばし、紅白歌合戦にも出演した異色の経歴を持ちます。高校の同級生には坂本九さんがいて、サザンオールスターズの「チャコの海岸物語」の“チャコ”という愛称は飯田さんのものだったとも言われています。様々な時代の、きら星のような才能たちを間近で見てきた飯田さんにとって、ものづくりで向き合う阿久悠とはどういう存在だったのか聞かせて頂きたくて、お話を伺いました。

 

番組でも触れられた「サウスポー」の書き直しのエピソードは、なかなかにしびれるものがありました。「いや、土下座してね…」と笑い話のようにさらっとおっしゃっていましたが、すでにレコーディングされていたものを覆すというのは当時でも相当の覚悟がいったんじゃないでしょうか。若輩の僕などにも、本当に丁寧に受け答えしてくださり、その誠実さと、温和さが滲み出ていらっしゃった飯田さん。しかしその柔らかさの奥には、良い作品をつくるためには妥協をしない強さがおありだったのだと思います。

 

天才と呼ばれる怪物たちを、ただ組み合わせるだけでは、実は面白いものはなかなかできないのかもしれません。怪物たちを本気にさせるひと。成功したプロジェクトには、必ずそういった表には出ない裏方のキーパーソンがいるものです。このひとだから、阿久さんも書き直しに応じたんだろうなと、飯田さんの笑顔をみながら思いました。自分が全力で投げたボールを、全力で投げ返してくれる作曲家や歌い手、スタッフを、阿久さんは求めていたのだと思います。

 

インタビューのなかでは、当時、彗星のごとく現れた新人バンド、サザンオールスターズのデビュー曲「勝手にシンドバット」について、阿久さんが「おもしろい!」とおっしゃったというエピソードも伺いました。言うまでもなく、この楽曲のタイトルは阿久作品の沢田研二「勝手にしやがれ」、ピンク・レディー「渚のシンドバット」をかけ合わせたであろう、いわばパロディ的なネーミングです。周囲は阿久さんが怒り出すのではないかとヒヤヒヤする方も多かったようですが、飯田さんがご本人に伝えると身をのりだして「おもしろい!ユーモアがあっていい!」と喜ばれたそうです。

 

このエピソード、とてもうがった見方をすると、阿久さんが、自分自身に後進のやんちゃを受け止められるだけの器量があると見せつけるための、いわばパフォーマンス的な言葉とも受け取れなくもありません。しかし、今回、番組を通しての取材で感じたところを踏まえると、僕個人は、本当に心から「おもしろい!」と喜んでいらっしゃったのではないかと感じています。
今回、取材の端々で感じたのは、阿久悠の創作という行為に対する、徹底した謙虚さでした。丹念に清書された直筆原稿にこだわるのも、作曲家への丁寧な説明ともとれます。また太郎さんから伺ったところによると、晩年は巨匠だとして、彼と向き合うことを避け、歌詞の修正についても具体的な要求をせずに投げ出すスタッフが多く、「ちゃんと言ってくれれば、俺はなんだって書くのに」と嘆いてらっしゃったと聞きます。「巨匠だから言えない」などという、作品の本質とは全く関係のない保身の理由だけで、創作に向き合うことから逃げる態度は、阿久悠のそれとは真逆のもので、彼自身は、作品がよくなるのであれば自分のプライドよりも作品の進化を優先したのではないかなと、僕個人は推察しています。

 

また、阿久悠は、作詞や創作に関する多くの著作を残しています。これほど自作について、自分で解説する言葉を残した作家は、おそらく他にいないでしょう。後述の糸井重里さんは、「(阿久作品は)他の人に、あまり語られなかった」とも指摘されていました。たとえば、同様に膨大な名作、ヒットソングを残している松本隆さんの作品群については、松本さんご本人が語る言葉よりも、多くの音楽ファン、音楽評論家たちによって語られる言葉のほうが圧倒的に多いように思います。両者ともに、その才能、業績の輝かしさは疑いないのにもかかわらず、欧米のサウンドというものに対して日本語を乗せるという音楽的に特出した改革を成し遂げた松本隆さんに比べると、とりわけ音楽ファンとよばれるコミュニティの人々に、阿久悠はあまり語られてこなかったのかもしれません。

 

なぜ阿久悠があれほど、自分で自分のことを語ってしまったのか。というところは、たしかに自身の能力を誇示する意味合いもあったでしょうし、彼の性格的にそれらの自分語りが単純に好きであったというところもあったでしょうが、もう少し踏み込んで考えられるところでもあるように思います。
膨大な技術論の公表は、自身の才能への自信を感じさせながらも、このロジックを持ってすれば、必要な覚悟があれば多くのひとに作詞家への道が開けている。自分が成したことは、つまりは“再現可能”である。と主張しているとも、とれるように僕には感じられます。

 

それは自分を孤高の天才として高みに置く姿勢ではまったくなく、真っ白な紙の前では誰もが横一線、平等であるという、創作に対して極めて誠実で謙虚な姿勢であると言えます。
阿久悠は彼自身が残した言葉の量が膨大であり、また(とっても単純なことですが大きな影響があったこととして)彼の風貌が実に巨匠然としてしまっていたことで、それらの「語り」がおそらく彼が意図した方向と全く逆のイメージを、世間に与えてしまっていたのではないでしょうか。

 

話を、飯田さんへのインタビューに戻しましょう。
繰り返しになりますが、だからこそ、やはり飯田さんのように体当たりで作り手にぶつかり、良い作品をつくるために真剣に奮闘するディレクターに対して、やはり阿久悠は喜んで向き合ったのだと思います。

 

インタビューの終了間際、思わず大きな質問をしてしまいました。
「阿久さんのこと、好きでしたか?」
飯田さんは、少し間をあけて、何かをかみしめるように「いやぁ、いろんなことがあって、たくさん歌をつくって、たくさん怒られたりもして……でも、僕は阿久さんのこと大好きでしたね。」しばし言葉がつまった飯田さんの目には、こらえてらっしゃるものがありました。
阿久悠は、作り手として、愛されていました。

「阿久さんがここにいても、僕は同じ話をすると思います」
対談3:糸井重里さん

1980年1月1日。沢田研二さんが新作「TOKIO」を発表します。

70年代後半、「時の過ぎゆくままに」「勝手にしやがれ」「カサブランカダンディ」など阿久悠作品を次々とヒットさせ、時代の寵児となっていた沢田研二さんが80年代の幕開けに歌ったのは、阿久悠の言葉ではなく、新進気鋭のコピーライター糸井重里の言葉でした。

 

あまりにも、象徴的な事件だったのかもしれません。

 

「怒っていたと聞いたよ」糸井さんはそう、おっしゃっていました。
今回、阿久悠をめぐって多くの方々のもとを訪れるにあたり、偉大なひとを、ただ偉大だと追認するだけの旅にはしたくないと思っていました。そのうえで、阿久悠と彼の作品群のターニングポイントを、結果的に象徴してしまった「TOKIO」という作品を生み出した糸井さんには、必ずお話を伺いたいと考えていました。

 

「阿久さんがここにいても、僕は同じ話をすると思います」

 

そうつけくわえたうえで、糸井さんは嘘やあいまいな取り繕いを加えることなく、思うところをすべてまっすぐに語ってくださいました。あえて言うのならば、その「嘘に屈しない」姿勢は、まさに創作者としての誠実な態度で、自分はあらためて糸井さんに対して強い敬意を抱きました。

 

糸井さんが「TOKIO」の歌詞づくりを説明する際に、「劇画」という言葉をつかわれたことには、多くの示唆が含まれているように感じられました。
阿久悠は歌詞のなかに「構図」「カメラアングル」といったような概念を持ち込んだひとでもあります。主人公のクローズアップから始まるかと思いきや、その後ろ姿も含めた俯瞰の構図にシーンが移り変わる。阿久悠がつくりだす虚構がいつもドラマティックなのは、映像の世界に影響された「アングル」という意識があるからに他なりません。

 

糸井さんは「劇画」という言葉を、虚構を描くことの自由さに結びつけてお話されていましたが、「映画」と「劇画」、異なる表現方法でありながらも共通点が多くあります。「劇画」という言葉からは阿久悠の親友であった漫画家の上村一夫の存在も、自然と思い浮かんできます。

 

また、糸井さんへの「TOKIO」の制作依頼が、当初は「アルバム曲のタイトルを考えて欲しい」というオファーだったというのも、前述の飯田久彦さんがピンクレディーの楽曲をまずはタイトルから阿久さんと考えて制作をしていたという話と、不思議と符合します。

 

70年代と80年代の分かれ目を、沢田研二という稀代のスターを媒体に象徴してしまった二人の作り手が、奇妙に似通った創作の視点、手法をもっていたことは興味深いことです。
逆から見れば、同じようなスタイルをとっていたにもかかわらず、全く異なるものが生まれていた、とも言えます。もしかしたら、その違いに見え隠れするものこそが、阿久さんが背負わされた時代性であり、糸井さんが背負わされた時代性であったのかもしれません。

 

「時代という言葉をつかいはじめてから、つまらなくなった」

 

番組で糸井さんが放ったこの言葉は、実に辛辣ですか、しかし芯を突いている言葉でもあると言えます。「時代」や「社会」といったとらえようのないものを強く意識した阿久悠は、ときにそれらを見つめようとするばかりに、俯瞰になりすぎ、客観的になりすぎ、自身もその社会のなかにいるという当事者性を失う危険性に、いつも晒されていました。

 

主観を持った、自分が本心で書きたいものよりも、ただ社会を解説するだけのような歌になってしまい、ある種の熱を失っていく。主観と客観のはざまで、ぎりぎりのせめぎあいが本人も気づかないところで、あったのかもしれません。
阿久悠の作品が、ときに「説教」的に聴こえるのは、まさにそのラインを越えてしまったときがあったからでしょうか。

 

この言葉は、対談最後の相手となった、秋元康さんとのお話にもつながっていきます。

「勝ちたいんだよ」
対談4:小西良太郎さん

阿久悠が作詞を手がけた北原ミレイの「ざんげの値打ちもない」を激賞したことをきっかけに彼と親交を深め、晩年までその才能の行方を見守り続けた音楽評論家の小西良太郎さん。

歌謡曲を分析する評論家としても、また、取材対象と直接向き合う現場の新聞記者(取材者)としても、玄人中の玄人です。生半可な質問をしては、芯の部分をお話し頂けないだろうと、今回の対話の旅のなかでは、実は一番緊張したお相手でした。

 

「おい、聞き逃したことはねぇか。そう何度も会えるわけじゃないからな、なんでも聞けよ」途中、やはりそんなことを言われてしまって、冷や汗が出てしまいました。

 

阿久悠は、数多くある自著のなかで、ある3人について繰り返し言及しています。
それは簡単に言ってしまえば「自分を認めてくれた3人」です。
ひとりは、自分が書いた作文を「君の文章は横光利一を思わせる」と褒めてくれた小学校時代の恩師。もうひとりは、まだ作詞家になる以前、広告代理店の社員時代からその才能を認めてくれた自身の妻。そしてもうひとりが、この小西良太郎さんです。
(ちなみに紫綬褒章の受賞にあたっては、「お前の歌は品がいいね」と言い残した実の父親の言葉を小西さんに代えて、あげています。この言葉については遺作となる小説「無冠の父」にも同様のエピソードが描かれており、彼にとってとりわけ大きな励ましだったようです。)

 

阿久悠のうちに秘める激情には、社会に自分の存在を認めさせたい(認められたい。という表現のほうが、彼の切実さに近いかもしれません)という、強い願望があったように自分には感じられます。小西さんは番組において「勝ちたいの。あのひとは、勝ちたいんだよ」とそれを端的に表現していました。

 

阿久悠と同じ1937年生まれには、あの美空ひばりがいました。
少年時代、海で溺れかけたときに、新聞に載る自身の死亡記事について想像したというエピソードを、彼はのちに著書で書き記しています。

 

「今、僕が溺れ死んでも少年水死の4文字で終わってしまうだろうが、美空ひばりなら、4文字どころから、4千字にも4万字にもなるだろう」

 

大先輩に大変失礼な言い方ではありますが、思わず愛らしさまで感じてしまうほどの激しい嫉妬ぶり。その人間臭さに、自分は無性に惹かれます。

 

作詞家として唯一、悔いていることを述べるとするならば「美空ひばりに代表曲といえるような詞を、書けなかったこと」と語る阿久悠。宴席で彼女と遭遇することがあっても、あまりにその存在を意識しすぎていたからなのか、社交辞令程度でほとんど会話らしい会話をできなかったと言われています。とはいえ、実は阿久悠も数篇の歌詞を美空ひばりに書いていて、日記にも、彼女に歌を書くことの喜びと意気込みをかいまみせる記述が残っています。しかし、それらは彼が夢想していた規模のヒット曲にはなりませんでした。

 

小西さんは、長く美空ひばりに密着した記者でもありました。

 

昭和という時代の、まさに太陽であった美空ひばり。その太陽の眩しい輝きがつくった影の下で、いつか自分の力を世の中に認めさせようと、大空を鋭い眼光で睨みつけていた阿久悠。
両者を間近で見つめ続けた、数少ないひとである、小西さん。

 

言葉の端々に、取材対象の尊厳を守ろうとする気概と、一方で、彼らとのあいだに、ぎりぎりの一線を越えない絶妙な距離をとる冷静さ。それを感じて「ああ、踏み込めないな」と、対談中、情けないことですが、なかば降参していました。

 

飯田さんにお会いしたときにも思いましたが、阿久悠だけではなく、彼と向き合う多くのひとたちが、あの時代、それぞれの立場で、それぞれの矜持をもって仕事にあたっていたのだと思います。取材者としての小西さんも、作る側の人間とはまたちがった角度から、信頼をベースとした痺れるような緊張感のある対峙を彼としていたのではないでしょうか。

 

若かりし頃、阿久さんや仲間たちを連れて、綺麗なお姉さん方がお酌をしてくれるような夜のお店に繰り出すこともあったそうです。

 

「でも、あのひとはお姉さんたちをかきわけて僕のところにきて、真面目な顔して、こないだの仕事の件なんですが…って始まっちゃうんだよ。もう、それ以来、あの方をそういうお店につれていくのはやめたね。あははは。」

 

肩の力を抜くということがなく、まわりがたじろいでしまうほど、徹頭徹尾、真剣だった阿久悠の姿を、苦笑いしながら、懐かしむようにいくつも語ってくださいました。

 

飯田さんと同じ質問を投げかけました。
「阿久さんのこと好きでしたか?」
「ひとことではいえないよ。(一般論として)人間はいろんな面をもっているものだ。ある面は好きだけれど、ある面は簡単にはそうとも言えないっていう、普通、そんなもんだ。」

 

それは、はぐらかしたのではなく、取材者としての、本音なのだろうなと思いました。

 

「ただ、あんなひとはいなかったよ。最後まで、崩れなかったね」

 

晩年、入院中の彼を、アポイントメントなしで面会することを許されていた小西さん。
何度、予告なしに病室を訪れても、阿久悠は、一度も体を横にしていたことはなく、いつもベッドの上で座っていたそうです。

 

「死ぬときも、ベッドで座ってたんじゃないか。そう思ってしまうんだよ。」

その歌づくりに他者はいるか。
対談5:いしわたり淳治さん

僕が思春期を迎えた頃、ヒットチャートを賑わせていたビックアーティストたち(その多くがいまだ現役です)は、ほとんどにおいて自作自演の方々でした。

作詞家、作曲家、編曲家、歌い手、それぞれの分業がはっきりとしていた時代はとうの昔。シンガーソングライターにせよバンドにせよ、自分の言葉を自分で届けることは当然のことで、そうであることにこそアーティストとしての価値が見出される。
自作自演というスタイルが、極端に言えば絶対視されるような空気が、少なからずあったように思います。
水野が籍を置くいきものがかりは、その成り立ちが偶然であったにせよ、主に水野と山下、二人の男子メンバーがそれぞれに楽曲(歌詞も、曲も)をつくり、それを吉岡が歌うというスタイルが基本となっています。作り手と届け手が異なる、いわばグループ内分業のかたちです。それがあまり他にないスタイルだというのは、デビューしてから気づいたと言ってもいいくらい、時間が経ってからのこと。

 

「これは昔の歌謡曲と同じスタイルなのかもしれない」
作家と歌い手が異なることが一般的な歌謡曲のスタイルに、改めて目を向けるきっかけとなったのは、自分たちの在りかたそのものでした。

 

阿久悠を追いかけるにあたり、僕と同じくらい阿久さんと歳が離れていて、なおかつ現在のミュージックシーンの最前線で活躍している書き手。そんな誰かにも話を聞いて、ともに阿久さんについて考えたい。そう思っていました。

 

そこで浮かんできたのが、作詞家のいしわたり淳治さんでした。

 

シンガーソングライター全盛。自作自演全盛。
そこまで言うと多少の誇張になってしまうのかもしれませんが、少なくともそれが主流であることは疑いないなかで、「作詞家」としてトップランナーであり続ける、いしわたりさんはまさに稀有な存在です。

 

歌詞とは「感情をしまう棚」。
彼が音楽番組などで口にしたそんな言い回しに、僕は強い共感を覚えていました。
ともすればメッセージソングなどと題しながら、自己表現、自己表出で完結してしまう、ただ吐き出したことだけで終わってしまう、ひとりよがりな歌詞が多い中で、その「棚」という表現は聞き手からの視点を明確に意識しています。
歌とは、聴いた人が主体となり、感情を寄せるものでもあります。聴き手が抱くさまざまな感情を、そこにしまいこむことができる感情の棚。歌をつむぐときに、他者(聞き手)の視点があることを意識しているか、意識していないか。

 

その歌づくりに、他者はいるのか。

 

これはとても大きな分岐点です。阿久悠の歌づくりには他者がいたと、僕は思います。
個人の主義主張、自我のようなものが、色濃く反映されているように感じられるその歌たちは一方で、必ず他者に開かれていました。自己表現だけが礼賛される空気のなかで、聴き手への意識をたしかに胸に置くいしわたりさんに、阿久さんの歌詞について伺いました。

 

「上野発の夜行列車降りた時から…ここで、もう映像が浮かびますよね」

 

あまりに有名すぎる「津軽海峡・冬景色」の冒頭の一節。たった二行で東京から青森まで数百キロを越えるこの歌詞は、映像的だと言われる阿久悠の歌詞のなかでも、とくにその描写の見事さにおいて取り上げられることの多い名作中の名作です。

 

映像的であること。これを指摘することはある種、当然なことではありますが、いしわたりさんはそこから一歩踏み込んで、映像的であるからこそもたらさられる魅力について語ってくださいました。

 

「聴き手の、参加意識が加わるんですよね。」

 

映像的であることで、かえって聴き手にその場面を自由に、かつ能動的に想像させ、聴き手の想像力によってこそ、歌詞がより深い奥行きを獲得していく。
ピンク・レディーの一連の作品群を、聴くひとがひとつのテーマパークをまわったかのように感じさせたいと表現していた阿久悠の言葉と、いしわたりさんの言葉はつながるように思いました。

 

「そしてそれ(=聴き手の想像)さえも、コントロールしている。言葉としての最高のかたち」

 

しびれるような洞察でした。

 

少し話がずれますが、僕は表現について考えるとき、よく落語の名演を思い浮かべます。
噺家が演目のなかで、蕎麦を食べるシーンを演じます。実によくあるシーンです。小道具は扇子くらいのもので、もちろんそこにお椀があるわけではなく、噺家の両腕と、顔の表情と、蕎麦をすする音を真似た口ぶり、それらだけで蕎麦を美味しく食べるシーンを表現します。
名人と呼ばれるひとのそれは、あたかもそこにお椀があるかのようで、実に美味しそうに見えます。しかし当然ながらお椀は実在しません。そのお椀はどこにあるかといえば、落語を鑑賞する人々の頭のなか、つまりは想像のなかです。

 

噺家の技術の如何によって、聴き手がお椀を想像しやすい噺と、聴き手がお椀を想像しにくい噺があります。聴き手の主体的な想像でさえ、噺家の腕にかかっているのです。あるいは、噺家の腕によって、想像“させられている”。歌も、そうなのかもしれません。

 

メッセージを、マジックを使って太字で書くような歌よりも、阿久悠がつくる漠然とした恋の歌の方が、ときに社会や文化に、人々の価値観に、強い影響を与えることがあります。
それは聴き手の主体的で、能動的な想像を引き出し、なおかつそれに、無意識のレベルまで彼の歌が働きかけるからではないでしょうか。

 

阿久悠が記した「作詞家憲法」の第5条にはこんな一文があります。

 

「個人と個人の実にささやかな出来事を描きながら、同時に社会へのメッセージとすることは不可能か。」

 

たとえば、「また逢う日まで」は、まさにこの第5条につながる歌と言えるでしょう。

 

歌とは、本来そんなかたちで、社会へ、人々へ、影響を与えうるものなのかもしれません。
それは坂本九の「上を向いて歩こう」のあり方であり、僕らが子供の頃から慣れ親しんだ、いくつもの童謡のあり方であると言えます。そしてそれは僕が歌をつくる際に、拠り所にしている考え方であり、シンプルなメッセージソングだけを礼賛する風潮への、対決姿勢でもあります。

時代
対談6:秋元康さん

阿久悠と同じく、放送作家という出自を持ち、阿久悠と同じく、単なる作詞家という枠を越えて、世の中に多くのムーブメントを巻き起こしてきた秋元康さん。阿久悠が少年期より意識しつづけた美空ひばりの晩年の代表曲「川の流れのように」を書いたひとでもあります。

「40年近く仕事をして、ふっと気づいて見てみたら、なんだ自分が歩いているこの道は、阿久悠さんがもうすでに延々歩いてきた道なんだ、と。」

 

「スター誕生!」でそれまでになかった新人発掘のかたちをつくり、実際に何組ものスターを生み出し、その成長をも後押しした阿久悠。いち作詞家という枠を飛び越えて、彼は一級のアイディアマンであり、仕掛け人でした。世に仕掛けるという意味で秋元さんも、阿久さん同様に社会に多くの風を巻き起こしてきたひとです。

 

「阿久悠さんって、スタイリッシュなんだよね」

 

ハードボイルドという言葉も秋元さんは使ってらっしゃいましたが、阿久さんは自身が真剣であることを隠さず、むしろそれを前面に出し、少々のことがあっても弱みなど決して見せず、おのれのスタイルを突き通す方だったと。一方で、秋元さんや、秋元さんと同じ世代の方たちは「真剣であることを前面に出すこと」自体を、粋とはせず、むしろ軽やかに、ポーカーフェイスで物事を為すことを良しとする世代でもあったと。

 

これは世代ごと特有の、スタイルの取り方のちがいなのかもしれません。
「がんばっている姿」「真剣な姿」がかっこいいとされるか、かっこわるいとされるか、これはそれこそ、時代によって多数派が入れ替わるところです。しかし、言ってしまえばこれは「見られ方」という表層の問題です。創作そのものの本質については秋元さんもこんな言葉をこぼしてらっしゃいました。

 

「もちろん僕も人間だから、へらへらしながらは書けないんだよね。」

 

「(歌のなかに)どれくらい、秋元さんが入っているものなんですか?」

 

「全部入ってる。100%入ってる。」

 

秋元さんの言葉の端々に僕が感じたのは、世間が秋元康という存在に対して抱いている(決していい意味だけではない)軽薄さのようなものを剥ぎ取った先にある、阿久悠さん同様の、作り手としての熱ある真剣さ、核のようなものでした。表層のスタイルはどうであれ、掘っていけば、おなじような芯に突き当たります。
秋元さんは巻き起こしたムーブメントが「産業」と揶揄されてしまうほどに大きなものとなってしまったがゆえに、その評価について、ビジネスとしてどうなのか、企画としてどうなのかなど、音楽以外の評価軸が二重、三重にも複雑に入り混じってしまっていて、いち作り手として秋元康とはどんな存在なのかというフラットな評価を、他の作り手の方々より、されにくくなってしまった方なのだと思います。
そういった意味では阿久悠も、作詞家と名乗りながらも、いくつもの小説を残し(もともとは作家志望でした。彼のなかでは本道の仕事であったはずです。)、「スター誕生!」をはじめとして様々な企画を立ち上げ、個人誌「月刊You」を発行し、自身の創作についての解説も含め多くのエッセイを残すなど、多岐に渡った活動が、彼の存在を(彼の意図とは逆に)より捉えづらいものにしてしまった部分はあったのかもしれません。

 

いずれにしても、「やせがまん」と題してハードボイルドを貫いたり、かたや軽薄を装って涼しい顔で受け流したり、その表層のスタイルの異なりはあったとしても、おふたりがその大きな成功ゆえに世間から激しい風を受ける場所に身をおいてきたことは確かで、そのなかでふたりともに共通しているのは、どんな風のなかでも作品を作り続けているという、シンプルで強靭なひとつの事実です。

 

「時代を追いかけたりすると、必ず、時代から1分遅くなったり、1分早くなったりする。阿久さんはそれがわかっていたから、同じ場所で、ずっとお書きになってたんじゃないかな」

 

「止まっている時計は、日に2度正確な時間を指す。つまり待っていれば、いつか自分と時代がぴったり合う瞬間がくる」

 

ふたたび、阿久悠と時代、両者の対峙についてです。
糸井さんがおっしゃった「時代という言葉をつかいはじめてから、つまらなくなった」という指摘は、秋元さんの言葉とつながります。時代という存在を自分の外側に置き、俯瞰してみようとする姿勢は、「時代を追いかける」ということと、意識としてほぼ同義かもしれません。一方で秋元さんは、阿久悠はそれをしなかったのではないか、ともおっしゃっています。後半期の河島英五「時代おくれ」などを、どう解釈するかは、意見の分かれるところです。

 

どうも玉虫色の結論に逃げるようですが、つたないなりの推論として僕が思うのは、おそらく「揺らいで」いたのではないかなと思います。主観と客観とのはざまで。時代を追いかける誘惑と、自らの立ち位置にあり続けるつらさとのはざまで。
作り手が生きている現実というのは、たいがい矛盾に満ちているものです。
阿久悠も、いくつもの矛盾を内包しながら、そしてそれをおそらく誰よりも自覚しながら、おのれが思うあるべき姿であり続けようと、それこそ戦っていたのではないでしょうか。

だからこそ、揺らいでいた。
あるときは敗れ、あるときは耐えきれず、時代の後ろ姿を追いかけてしまうような瞬間も、あの阿久悠でさえ、あったのではないでしょうか。
しかし、揺らいでいたということは、すなわち、“ほんとうに”戦っていたということでもあります。

 

「時代を喰って」歌を書くとは、「巫女(みこ)」になることと、隣り合わせです。
しかし最後まで阿久悠は、自分という主体を失わずにいようとしました。
時代を喰って、時代をそのまま吐き出していたのではなく。
時代を喰い、それらと対峙し、我が何を思うかをそこに刻み、歌として昇華しようとしていました。

 

その一連を、成功させたこともあれば、時代を喰おうとすることに足元をすくわれ、失敗させたこともあった。その勝利と敗北とのあいだで、生涯を通じて、“ほんとうに”戦い続けた。
自分には、阿久悠の姿が、そんなふうに見えます。

『愛せよ』
唄:山本彩さん 編曲:亀田誠治さん

阿久悠が残した未発表の遺作は、かなりの数があり、その大部分がまだメロディをつけられていないままだそうです。没後10年の今年、多くのアーティストが未発表詞に曲をつけ、さまざまなかたちで、それらが発表されています。

今回の番組においても、一篇の詞を預かり、曲を書かせて頂く機会に恵まれました。

 

一般論として、未発表の作品というものは、作者が本当に世に出したかったものなのか、わかりづらいところがあります。もしかしたら本人にとっては満足のいく作品にならなかったために、あえて発表せずに手元に置いたままにしてあった、ということも考えられるからです。
今回についても、そこに対する危惧がなかったかといえば、嘘になります。

 

しかし、取材のなかでいくつかの直筆原稿を手にとって確かめさせて頂くなかで、そんな不安は少しずつなくなっていきました。

 

阿久悠の原稿は、おそらく僕が拝見した限りにおいては、書き直しのあとがほとんどありませんでした。何を言いたいかというと、つまり、書き損じた場合は、その原稿用紙を捨てていたのではないかということです。最初の文字から、最後の文字まで、完璧に書くことを自分に強いていたのではないでしょうか。たとえほんのわずかでも、淀みや迷いが原稿用紙のうえに混ざることを許さない、かなり徹底した、清書です。(おそらく清書をする段階では、作品そのものは推敲を終え完成していて、あとはそれを原稿用紙に刻むのみ、となっていたのではないでしょうか。)

 

それほどの熱意を持って清書してある作品。
少なくともこの清書という行為を経ているものであるならば、歌として育て、世に出す意志があったものではないだろうか。少し都合が良い考えなのかもしれませんが、そう思い決めることで、残された大切な詞にメロディをつけさせて頂く決心がつきました。

 

歌っていただいたのは、アイドルでシンガーソングライターの山本彩さん。
アイドルという社会の期待を一身に受けとめる存在であり、なおかつ、自らも作品をつくり自己表現も行う彼女。「時代」という言葉を繰り返しつかっていた阿久悠の歌だからこそ、彼女のような、今の時代を象徴するような場所に身を置くひとに歌っていただくのがふさわしいと思い、お願いしました。

 

編曲、プロデュースは亀田誠治さん。亀田さんには制作にあたり、今回の番組の経緯も含めて、楽曲について綴った長文のメールをお送りしました。亀田さんには、いきものがかりの作品でも何度もお世話になっていますが、作り手の熱をしっかりと汲み取ってくださる方です。阿久悠の「狂気の伝達」に影響されたのか、僕も亀田さんに少しでも熱を伝えようと、あつくるしい言葉を送ってしまいました。真正面から、受け止めて頂いたと思っています。

 

直筆の原稿を、作業場の机に置き、阿久さんが書いた言葉を目の前に、鍵盤にふれながらメロディをたぐりよせていくのは、得難い時間でした。
それっぽい脚色をするつもりはないのですが、なにか阿久さんにあの鋭い目つきで睨まれているようで緊張感がありました。メロディをつくり終えて、簡単なデモに仮歌を録り終えたときは、思わず原稿に向かって「これで、大丈夫ですか?」と呟いてしまいました。

 

『愛せよ』は、今の時代に必要とされている言葉だと思います。
すべてが相対化され、正義と正義とがぶつかり、どちらも正しさを主張して、分かち合うことは絵空事になってしまっている、今です。

 

この作品は、昭和63年の秋に書かれたものだそうです。つまり、昭和最後の秋です。
もちろん今とは違う社会を見つめながら、今とは違う問題意識で、阿久さんもこの言葉を書き連ねていったのだと思います。
しかし、それを博物館で掲示されるような「偉人の過去の言葉」として、ただ流し伝えるだけでは、意味がありません。あくまで現代の歌としての息吹を与えなくてはいけません。

 

平成も改元に近づいている現在を生きる自分が、現代の社会をみて、現代の問題意識で、現代の解釈で、この詞を選びとり、メロディをつけ、新たな意味をもたせて、世に届ける、そのことにこそ意義があるのだと思います。

 

昭和最後の秋に書かれた言葉に、僕は僕が生きる今の時代なりの思いを、ぶつけて、つなげたつもりです。それが阿久さんに対して、そして阿久悠の言葉に対して、もっとも誠実な向き合い方であろうと思ったからです。

 

詞から、歌となった『愛せよ』。
そしてこの歌が広がっていく先の景色。
それが、時代に、社会に、他者に、倒れることなく最後まで自分の言葉を投げかけていった彼に対して、僕が精一杯の力を込めて返したかった、返事です。